方代散策――『迦葉』を読む(4)
2010-09-21


十一、学校


 学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる




 「一休」つまり一休みだから、ここで一服の「一ぷく」さんというわけかしら。本当の一休さんはとてつもなく偉い人らしいが、「学校を出ていないゆえ」難しいところはわからないので今も「一ぷくさん」などとダジャレで親しげに呼んでいる――。

 「今も呼んでいる」のは、人かわれか、特定できない。方代の歌は、時間軸の上に位置づけて解釈できないのと同様、歌の主体が「われ」か「人」かということも決定しにくい。そういう作り方をしていないのだ。読む方が、勝手にこれは方代(=作者)のことだと決めて解釈しているだけの話である。

 周知のとおり、一休禅師は室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧、後小松天皇の落胤とも言われ、自由奔放、風狂の精神に生きたとされる。とんちの一休さんは、民衆の共感によって江戸時代につくられたフィクションなのだそうだ。

 歌は、控えめになされた民衆の主張である。難しいことはいっさいがっさい丸め込んで呑み込んだ民衆の共感というものこそ真を突いている、それでいいではないか。「学校を出ていないので」と言い訳をしてへりくだりながら、歌はそう主張するのである。

 知的エリート層に対する「民衆」、歴史を動かす有名人に対する無名の人々、そういう層に照明をあてる学問や評論や運動はこれまでにもたくさんあった。わたしはいつもその前で立ち止まり、警戒しないではいられない。しばしば、そこから偽善と感傷と陶酔とがにおってくるからだ。「民衆」に知の照明をあてて対象化するというそのこと自体が、高みの位置を証している。

 そういう「善意」の知的エリート層の感傷から立ち現れた〈民衆〉の幻影を、民衆の側から内面化して反復する、という心理も、またあるのであって、それも嫌だ。

 方代のいう「民衆」は、それらに類似したものなのか。それとも違うのか。違うとすれば、どう違うのか。そういう疑問は、ながく胸にとどまっていた。

 わたしは、いまここにある「学校を出ていないゆえ一休さんを一ぷくさんと今も呼んでいる」という歌を、ほとんど犬のように嗅ぎ分けてみようとする。そうしてついに、一片の偽善も感傷も、ルサンチマン(怨恨感情)もコンプレックスも感じられないことに、目をみはる。読後にまったく嫌な味が残らないのである。

 方代は、昭和初頭の片田舎の尋常高等小学校卒でしかない。立身出世の学歴社会にあって、貧困や家庭環境によって高等教育を受けることができず、やっと作歌に慰めを見出したり、奮起して働きながら学費を稼いだり、そういった歌人はいくらもいた。ことに大正末期から昭和初期にかけては労働運動が勃興し、渡辺順三や坪野哲久など、マルキシズムに覚醒していく者も多かった。

 当時のほとんど流行とも言うべき社会主義の方向に、なぜ方代は関心を惹かれなかったのか。なぜ、方代の歌には学歴コンプレックスらしいものが感じられないのか。社会主義の根底にはルサンチマンが潜むとニーチェは喝破したが、そういう社会に対する恨みつらみや、反語や当てこすりや居直りのような嫌味が、方代の歌にはまつわっていない。それでいて、ものの真を突く直観をもった民衆としての場所に立っている。

 方代は、いかにして民衆の言葉を語り得たのか。

 『甲陽軍鑑』によってであろう。今、そう言えるように思う。全歌集年譜を見ると、昭和三年、十四歳の年に「父龍吉から甲陽軍鑑を勧められ読む(方代談)」とあるが、『甲陽軍鑑』は以後、方代の土台をつくりあげた書であった。



  なつかしい甲陽軍鑑全巻を揃へてほつと安気なんだよ




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[山崎方代コーナー]

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