2010-09-13
八、急須
そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかりなり
昭和五十六年『うた』十月号初出。あなたとは朝な夕な手にとってはお茶をいれる急須のように親しいつき合いだが、という。「そなた」の語からしても、相手は女に他ならない。
それなのに、歌を読んで浮かんでくるのは、乱雑に散らかった卓袱台のうえに急須が一つ。その急須と向かい合う、ひとり暮らしの老いそめた男の姿である。「そなた」は、所在ないさびしさから生まれる幻影であるということを、読む者は瞬時に了解する。じつに高等な比喩法ではないか。
寂しくてひとり笑えば卓袱台(ちゃぶだい)の上の茶碗が笑い出したり
卓袱台の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり
さびしいから灯をともし傍らの土瓶の顔をなでてやりたり
卓袱台の上の土瓶がこころもち笑いかけたるような気がする
一九八〇(昭和五五)年刊『こおろぎ』から土瓶や茶碗の歌を拾ってみた。すべて明白な擬人法を採る。方代の歌は、そもそも擬人法に特色がある。童話のようななつかしさも、わかりやすさも、歌に擬人法を多用するところがおおいにあずかっている。
掲出の歌も、擬人法で発想するなら、「急須とはおんな(女房)のように親しくて」とか、「そなた急須よ」とか、そんなふうになるところ。これなら『こおろぎ』時代と同水準の歌だ。
ところが、ここでは「そなたとは急須のようにしたしくて」――単純な擬人法ではない。「急須のように」は、比喩という以上に「急須」という語が実体の重みをもっているので、「そなた」と「急須」の転倒だと誰もが気づく。しかも、指し示す語の力によって「そなた」の幻影はたたないではいない。
「そなた」は「急須」でもあり、「急須」は「そなた」でもある。方代は、幻影とも実在ともつかぬ交錯するあわいを、こういう叙法によって発見した。このあわいだけが確かなもの(=ほんと)で、実在している(とみんなが思っている)「うき世はなべて嘘ばかりなり」。
擬人法は、モノがいかにも人に化して見えてこないといけない。『こおろぎ』の「茶碗」も「土瓶」も、まるでほんとうに笑っているかのようで、そういう幻影をちゃんと見せてくれるからこそ、歌がたのしい。
しかしながら、認識の根本をただしてみるとき、『こおろぎ』の擬人法では「急須」は依然として実体であり、「うき世」は実在する。幻影は、作者がつくり出した幻影に過ぎず、作者だけに所属する主観のもたらしたものである。
ところが、『迦葉』のこの歌にあっては、「そなた」こそが実在するのであり、「急須」は比喩として引合いに出されているにすぎない。にもかかわらず、作者も読者も、「急須」こそが眼前にあって「そなた」は幻影であることを知っている。この矛盾した叙法によって、実在と幻影とが交錯するあわいが歌に実現した。
実在は実在、幻影は個人の主観から生まれるものという、いわゆる客観−主観の二元論を超えて、そのあわいを〈開く〉――方代の擬人法はこんなところにまで出てきたのだった。驚くべきことである。
九、生の音
おだやかな生の音なり柚の実が枝をはなれて土を打ちたり
昭和五十六年『短歌新聞』十月号初出。熟し切った柚の実が、あるとき枝から土に落ちる。やわらかな土に落ちる、そのときの音を「おだやかな生の音」だと聞いた。
眼前に見てうたったわけではない。近所に熟れた柚の木を見たり、どこか畑の土に柚が落ちているのを見たり、もしくは何かで「柚」の文字を見たというだけでもよい。それをきっかけに、柚の実が落ちるときの音を耳の内に聴いた。
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