方代散策――『迦葉』を読む(2)
2010-05-29


「鼻のようだよ」が、無花果と関連深い「キリスト様だ」となったことによる飛躍は、これまた言うまでもない。

 無花果は小アジア原産、パレスチナには早くから移植された重要な果樹であり、旧約聖書新約聖書ともにしばしば現れること、方代はかすかにでも知っていたということになる。

 イエスが空腹を覚えとき遠くから無花果の繁った葉を見て近づいたが、実りの季節ではなく、実がついてなかった。それでこの木に向かって「今から後いつまでもおまえの実を食べる者がないように」と言ったと、マルコ伝には記す。方代は、こんな寓話も知っていたのだろうか。方代の歌は、そのとき空腹を覚えた者と、はじけるまでに実りの季節を迎えた無花果と、出会いの時の合致した幸福を思うぞんぶんに讃えている。




   四、末成り南瓜


      胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような老人である




 初出は『うた』昭和五十六年四月号だが、これも二カ月前の『かまくら春秋』に次のような似た歌がある。


      どっしりと胡座の上に身をのせて六十五才の春を迎えり


 この改作の方向も、さきの「キリスト様」の歌と似ている。どっしりと胡座の脚のうえに身をのせているわたしは六十五才の春を迎えたよ――こちらは、そう、〈われ〉が叙べている歌だ。ところが、先の掲出歌では、文人画とも挿絵とも漫画ともつかないような老人の姿がはっきりと見えてくる。その姿は、〈われ〉でもあり、他でもある。

 「胡座の上に乗っておるのは末成りの南瓜のような」、すこしひねた末成り南瓜のようなものが、胡座の膝のうえに乗っている。「乗っておるのは」という言い方は、外側から見るかたちをしめす。胡座の膝のうえに乗っているのは末成り南瓜のような・・・さて、ここで普通に語を続けるなら、末成りの南瓜のような顔、末成りの南瓜のような頭、こうなるところ。「老人である」とは、けっして続かない。「胡座の上に乗っているのは」−「老人である」と繋がることになって、おかしいからだ。

 ところが、「老人である」と繋げて、じっさいにこの歌から思い浮かぶのは、老い屈まった老人の、ひねた末成り南瓜のような大きな顔が、胡座のうえにのっかっている姿である。「胡座の上に乗っているのは」−「末成りの南瓜のような」−「老人である」という、この語順に若干のひずみがある。それがこの歌にどこか舌足らずな面白みをかもし出してもいる。

 おそらく、作歌時におけるこの歌の呼吸は、「末成りの南瓜のような」で切れている。四句で一呼吸おき、飛躍して、結句「老人である」と一首を大きく包含した。結句で大きくくるみとってこそ、水墨画のような稚純な老人の姿をそこに現出させ得たのである。

 こうして、〈われ〉の歌としての「六十五才の春を迎えり」の自画像の域を脱する、歌の普遍性が生まれ出た。

 山崎方代という、特殊なうえにも特殊な生き方をしてきた歌人のの歌が、特殊な人生をたどった者の一独白、一物語に終らず、大きな普遍性を獲得しているのは、このような創作者としての苦闘があったからだと、いまさらながら思い知る。




   五、一粒の卵


     一粒の卵のような一日をわがふところに温めている




 『かまくら春秋』昭和五十六年六月号では、この歌は次のようであった。右初出は『うた』同年七月号。


     短い一日である一粒の卵のような一日でもあったよ


 卵は、昔のひとには貴重品。病人の栄養補給品でもあって、方代にもそんな歌があった。「一粒の卵のような一日」は、そんな貴重な一日だという、比喩としてもわかりやすい比喩。


続きを読む
戻る
[山崎方代コーナー]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット