街上遊歩 (15)三日月
2008-06-12


窩(あなぐら)の扉(と)をおしひらきあかるさよ秋かんばしき町に入り行く     英



 一方にしか窓のない、小さな洞窟のようなマンションの重い扉を押すと、金木犀の香をふくんだ怜悧(れいり)な秋の気が流れこんだ。
 
 こんなに車がひっきりなしに走っている町にも、金木犀の香は流れる。このままふらふら出て歩きたいという思いをおさえ、胸いっぱい息を吸いあげて、郵便物を取って戻る。
 洞窟の窓辺で、キーボードを叩いていたけれど、夕方五時近くになって、やっぱりちょっと行ってこようと思い切った。

 東京では、いま、六時には暗い。一歩外に出ると、夕風はTシャツでは肌寒いくらいである。
 いつもの裏道を抜けて、通りを渡り、三宿病院の見える道をひだりへ曲がる。すると、どれほども歩まないうちに世田谷公園だ。うっそうと繁った唐楓の森の下に入ってゆき、木下の道をたどって、築山へ土の階段をのぼる。

 設計の悪い公園は町の真ん中に人寂れた空間を作ってしまうものだが、この公園では、いつ行ってもひとびとがそれぞれに憩うている。狭いアパートでは思い切り音を出せないミュージシャンの卵たちが森かげのベンチで練習に余念なく、犬をつれたおばさんたちが立ち話をし、傍らをジョギングのおじさんが走り抜けてゆく。

 今日は、築山の上でギターと若い女の声がいくつか聞こえるようである。椎の枯れ葉を踏みながら、登りきると、シンガー・ソングライター風の男女のペアが、一つのベンチで歌をうたい、別のベンチでは、トランペットを抱えた女の子たちがたむろしていた。下に見渡す広場の噴水は、もう五時を過ぎてしずまっている。

 目を上げると、晴れわたった空の東に二つ三つ低い雲が沈み、夕茜を映した薔薇いろを帯びているのが、なんとも愛らしい。
 和んだ目を西へ移せば、日はすでに落ちて、空のひとところに透明な黄金を反照させている。

 それから、わたしの真正面のかなたに、三日月がうっすらと現われているのに、ふと気が付いた。まだ明るさの残っている空の三日月の、隠れている球体の曲面を目に探りながら、なにかしら、かすかな幸福感が響く。



                                 (西日本新聞2003.10.4)
[街上遊歩]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット