2008-05-03
駒繋神社の猫のことを話しはじめたら、きりがない。
蛇崩川であった遊歩道の上流へむかって七、八分も歩けば、駒繋神社のうっそうと繁った木群が見える。遊歩道は、神社のふもとの木群を巻くようにして湾曲し、そのひとところに噴泉がある。
飼っていた猫に死なれたころ、このあたりを歩いていると、植え込みに黒い傘がひらいていた。覗けば、段ボール箱で作った猫のアパートである。
子猫が三匹ほどいた。冬のさなかだったが、黄色の雄猫が抱いて寝ているのだという。子猫の一匹は片目で、生まれたばかりのころ、鴉に突つかれたのだそうだ。
手のひらがあの柔らかい毛を撫でたくて禁断症状を呈していたわたしは、背中を撫でさせてもらいにキャットフードをもって通うようになった。
ところが、餌をやりながら猫と会話していると、かならずといってよいほど、ウォーキングをしているおばさんや、自転車に乗ったおじいさんや、サックを肩に掛けた青年や、子どもたちが、親しみをこめて声をかけてくる。東京に来ていらい、こんなことは初めてだ。この町に住んでいるのだ、という実感がじんわりと湧いてくるのにはわれながら驚いた。
噴泉のあるその場所を、犬の散歩やジョギングをする人々が行き交い、餌を食べる猫たちのそばで通りすがりの人々が立ち話をし、コミュニティの小さな息づきのようなものが感じられた。
ところが、ある日、まっ白い立札が立ったのである。噴泉の餌やり場を威嚇するかのような仁王立ちの立札には「この公園内で猫に餌をやらないでください」云々とあった。猫嫌いがいて、区役所に通報したのだろう。
病気の猫を捨てていく不心得者もいるし、猫嫌いの気持もわからないではないけれど、嫌なものは何でも公的力によって排除ということでいいのだろうか。
あの猫たちはどうなるのかと思えば、居ても立ってもたまらない。風刺の歌を作って、立札に貼り付けてやろうかしらん、とも真剣に考えた。
それから数年、立札の効力は絶大で、あの噴泉の場は、昼間でも薄暗く人の気の無い、荒れて寂(さび)れた空気の漂う場所となった。
猫は、三匹だけがようやく残った。
(西日本新聞2003.9.20)
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